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こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

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陸軍に人種差別は少ない

最後に、アフリカ系アメリカ人にとっての軍隊の意味と、
白人エリートにとっての軍隊の意味が、いかに、かけはな
れているかをしめす、ふたつのエピソードを引用して、コ
リン・パウエル自伝の紹介を終えたいとおもいます。

<1950年代以後、陸軍の駐屯地のゲート内では、南部
の市役所や北部のどんな企業とくらべても、人種差別は少
なく、平等の報奨制度と平等の機会が用意されていた>

パウエルは回想します。

「1961年の夏に、3年間の兵役義務が終わるので、除
隊しようと思えばそれも可能だった。だが、除隊すること
は考えてもいなかった。当時のアメリカは景気が悪かった
が、軍隊に残れば、月に360ドルはやすやすと稼げる。
年額にして4320ドルという高額だ。しかもその職場は
、自分に才能がありさえすれば昇進できるところだった。
おまけに、黒人にとっては、アメリカの社会のどこへ行っ
ても、これほどの機会を与えてくれそうもなかったのだ。
だが、何よりも重要なのは、自分のしていることが好きだ
という点だった。

これまでアフリカ系アメリカ人のあいだには、自分たちの
ために一度も戦ってくれたことのない国のために、なぜ戦
わなければならないのか? 何の利益もこうむらず、白人
のアメリカ人が受けているようなごく普通の快適な生活さ
え享受できないのに、そんな国のために奉仕などできない
ではないかという思いがある。

そうは言っても、尊ばれ、蔑まれ、あるいは歓迎され、い
じめられながら、何十万というアフリカ系アメリカ人が建
国当初からこの国のためにつくしてきた。私が兵役につい
たマサチューセッツ州では、自由の身であると奴隷とにか
かわらず、1652年の昔から黒人が市民軍に徴用されて
いた。独立戦争のときには、5000人以上の黒人がワシ
ントン将軍のもとで兵役につき、国を独立させるために協
力しながら、自分たちはその独立の恩恵を受けなかった。
南北戦争のときには22万に近い黒人が北軍に身を投じ、
3万7500人が死んでいる。彼らは奴隷から解放されは
したが、故郷へ帰ってからは人種偏見、クー・クラックス
・クランの台頭、そしてリンチに苦しめられたのである。
 
南北戦争後に、アメリカ議会は黒人の部隊として、第24
および第25歩兵と第9および第10騎兵という4つの部
隊の創立を認めた。伝説によれば、彼らはインディアンか
ら「バッファロー・ソルジャー」と呼ばれた。黒い肌にち
ぢれ髪で、バッファローの毛皮のコートを着ていたこと、
そして勇敢に戦ったからである。しかし、こうした部隊を
創設したからといって、人種偏見が解消されたわけではな
かった。ワシントン大統領が西部に開拓をすすめたとき、
白人の居住者をインディアンから守りたかっただけである
。バッファロー・ソルジャーは白人が土地を手に入れ、そ
れを守る手助けをしたのだが、そうした土地の大半は黒人
が所有することが許されなかったのである。

米西戦争のとき、シオドア・ローズヴェルトが荒馬騎兵隊
(ラフ・ライダース)と称する義勇部隊をひきいてサンフ
ァン・ヒルを攻めたときの絵を探しても、黒人の顔はひと
つも見当たらない。しかし、この場面が写真に撮られてい
たなら、黒人も写っていたはずである。彼らは間違いなく
、そこにいたからである。そのうちの7人は、キューバで
名誉勲章を授与された。第ニ次世界大戦では、100万人
近い黒人兵が参戦し、そのなかには、タスキギー航空兵の
ように、初の黒人の戦闘機パイロットとして活躍して、黒
人の技術と勇気によって、どんなことでもなしうることを
証明した者もいた。

それなのに、こうした黒人兵は、1945年に帰国して南
部のジム・クロウにぶつかった。彼らをそこで待ち受けて
いたのは、分離すれども不平等の学校や大学であり、就職
の見込みもあまりなく、「黒人用」に差別された洗面所や
水飲み場で我慢を強いられたのである。他の地域でも、人
種差別は目立たないだけで、相変わらず存在していた。

それにもかかわらず、黒人がつねに国家の求めに応じてき
たのはなぜだろうか?

彼らに許されたたったひとつの領域で、市民としての権利
を行使するためだった。自分たちが同じように勇気をふる
い、祖国のために同じ犠牲をはらいつつ、戦い、死んでい
くならば、平等の機会はかならずやってくると信じていた
からなのだ。たとえば、アンドルー・ジャクソン将軍は、
とりわけニューオーリンズの戦いで自分とともに戦った黒
人には土地を与えると約束した。黒人たちは戦い、戦死し
た者もいた。だが、銃撃がやんで危険が去っても、彼らは
何ももらえなかった。

ハリー・S・トルーマン大統領が軍隊内での人種差別に終
止符を打つ大統領命令に署名したのは、1948年7月
26日だった。こうして、黒人のアメリカ兵が、白人と等
しく祖国のために死ぬことが許されるなら、軍隊で平等に
仕えることも許されるはずだということになった。

私が入隊したのは、この歴史的な転換点から、わずか10
年後のことである。フォート・ベニングで上級歩兵課程に
いたとき、いちばんの親友はドン・フィリップスとハーマ
ン・プライスだったが、私をまじえたこの3人の黒人が点
呼のときにアルファベット順で隣同士に並ぶと、まるで軍
隊はまだ白人と黒人を分離しているかのように見えた。フ
ィリップスは、最後には陸軍大佐に昇進し、ワシントンの
陸軍儀仗兵連隊を黒人として初めて指揮することになった
。プライスは、医学の道に進んで、陸軍の心臓病医の主任
になった。彼らふたりの歩んだ道も、他の黒人将校として
、たとえばリチャード・ニクソン大統領の軍事補佐官にな
ったレインジャー・コフィーなどがたどった道も、あまり
知られていない事実の恩恵に浴したのである。

つまり、陸軍は、アメリカの他の分野に一歩先んじて、民
主主義の理想を実現していたのである。1950年代以後
、陸軍の駐屯地のゲート内では、南部の市役所や北部のど
んな企業とくらべても、人種差別は少なく、平等の報奨制
度と平等の機会が用意されていた。したがって、陸軍にい
たおかげで、私はさまざまな欠点があるこの祖国を愛する
ことも、心の底から祖国に奉仕することも、容易にできた
のである。」


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